イタリア・ボローニャからアルテエサルーテ劇団を招聘しての公演「Marat / Sade」いかがでしたでしょうか?東京ソテリアでは、参加された皆さまの感想を募集します!残念ながら参加できなかった皆さまのメッセージも受け付けます。お届けいただいたメッセージはイタリア語に翻訳してアルテエサルーテ劇団のメンバーにお伝えします。下記のフォームからメッセージ、お待ちしております!
お送りいただいたメッセージ(の一部)
アルテサルーテの皆さん、お元気でしょうか。
あれから1か月が経ちますが、まだ皆さんと一緒にいるような気持ちです。
私は名古屋・東京とご一緒させていただきました。最初の頃は皆さんのパワーに圧倒されてしまって、うまく皆さんとコミュニケーションがとれなかったと思います。
そんな私の気持ちを察してくださったのでしょうか。皆さんからいただく笑顔に、勇気づけられ、コミュニケーションの一歩を踏み出せました。
日を追うごとに一緒に感情の共有を出来るようになった時、はっとさせられた事があります。
私たちは同じ人として、つながっているのだと。
障害を抱える、抱えないというのは個性の一つでしかないと、実感させられました。
人としての原点を振り返ることが出来ました。皆さんとの出会いに感謝しています。
そして皆さんの健康を祈っております。
M.Iさん(Nov 9, 11:11 AM)
まず、浜松で見る機会を作ってくださった東京ソテリアと浜松サルーテの会には、心から感謝します。こんなことあり得ないと思うくらい、貴重な時間でした。
ペーター・ヴァイスのマラー/サドは、70年代に戯曲の存在を知って、気になっていました。当時私は 作業療法を学ぶ学生で、演劇をやっていました。精神障害と演劇の結びつきはとても引かれるものがありましたが、マラ―/サドを見る機会はなく、70年後半か80年になって、ピーター・ブルックの映画が来たときに、見に行きました。
ただその映画は、(ピーター・ブルックだったにもかかわらず)そんなに面白いとは思いませんでした。なんだろう、とても観念的で、う~んという感じ。包帯を巻いたマラ―は今回の芝居と同じですが、後の印象はあまりないのです。
今回は 当事者の俳優が演じるということで 多分ペーター・ヴァイスが書いた戯曲の意味が まったく別物になったと思います。見る方も、普通の俳優の演技とは違うものをそこに見出します。見る側の構えが、全然違う。それは 当事者の俳優ということへの偏見では全くなくて、演技の向こうにある本物の何かを見ようという、観客としての積極性、乗り出す気持ちです。きっと、そこがピーター・ブルックの映画の印象とまったく違う理由でしょう。
歌を多用したことは 成功でした。俳優が歌うその歌がまたいいこと、特にシャルロット・コルデ―のロベルタ・ディステファノさんの歌が素晴らしかった。他の皆さんの歌も
とても聴かせた。
さて、オリのことが 結構話題になってるようです。私も、ものすごく気になり、質問の手を挙げました(結局、他の方の質問や当事者のコメントが続いたので、そちらに譲りました)。手を挙げた時点では、なぜオリが最後まで壊されないのか、そこへの不満の気持が先にたっていました。観客として壊しに行ったら、それは止められてしまうのだろうか、と聞きたかったのです。
もともとの戯曲ですと、虚構の世界になりますから、すべては舞台上の出来事で、自分に直接かかわってきません。ですが、実際に精神病院を廃止した、つまりオリを亡くしたイタリアの当事者劇団が、まだオリがある日本で公演すると、そのオリを作っているのは観客である我々自身ということが、突き付けられます。これは、かなりいたたまれないことです。いたたまれない気持ちにさせることは、メッセージとしては成功です。あるいは 最後はオリが外れるというハッピーエンドにしないということも、きっちりとしたメッセージです。カーテンコールにはオリは開くだろうという期待を見事に外してくれましたが、開いてしまったらまた別の不満が残ったかもしれません。こんなにオリについて、考えさせること自体、成功です。
でも、オリが最後まで開かない、というのは、たとえばオリの中にあっても気持ちは自由でいられるとか、オリがなくなっても偏見と言う見えないオリがあるとかの象徴にするには、あまりに直裁すぎる気がしました。例えば、オリが開く、拍手してよかったよかったと思って外に出ようとすると、入り口がオリのようなものでふさがれている、とか、オリが一度は開くけれど、観客を招き入れて、また閉じるとか、なにか二重構造のようなことができないかな、なんて自分なりの演出を考えたりしました。
そんな風に とても刺激を受けた公演でした。
Nさん(Oct 28, 10:38 PM)
とても吸い込まれました。ありがとう御座いました。それぞれ、色々な事を経験して生きている中、打ち込めて表現出来て幸せを感じられるといいなーと思います。
Dさん(Oct 28, 12:35 PM)
友人に誘われて参加しました。
劇を見て、自分でも驚くほど感動しました。しばらく余韻が頭から離れなかったくらいに。とてもすばらしい演技でした。事前に知らなければ、当事者が演じているとわからなかったでしょう。
病に苦しむ人々を勇気づけ、世界に実情を伝える、すばらしい活動だと思います。今回のイベントで、バザーリア法をはじめ、いろんなことを学びました。イタリアと日本、相互の交流がさらに深まり、だれもが安心して自由に暮らせる社会が実現することを願います。
多くの人が公演を見てくれたら、理解や関心が広がり、問題の解決につながるのではないか、と希望を感じました。
次回があれば、また参加したいです。この舞台を見ることができて幸運だった、といまでも思います。
アルテエサルーテ劇団、関係者の皆様、どうもありがとうございました。皆様のさらなるご活躍を祈っています。
Nさん(Oct 27, 4:24 PM)
いつも貴重な通信を頂き有難うございます
先日のイタリアの講演に 参加させていただき感謝です
当事者の方の芝居と聞き関心をもって臨みました。芝居の内容が自分ではよく理解できなっかったのですが。最後に主人公が叫んだセリフが感動的でした
長い間社会から拒絶され卑しめられていた精神障害者の方の心からの叫びのほとばしる感動的なセリフをきき震えました。そうなんですよね。偏見と誤解に満ちたこの日本に生きている精神障害のひとたちはご自分の病気の苦しさプラス世の中の偏見の苦しさも加わって大変です
イタリアのように早く開かれた世になってほしいと思いました
この芝居はその希望でした
企画されたソテリアの方に感謝しイタリア大使館に感謝です
Sさん(Oct 27, 11:05 AM)
舞台装置、目の前に(格子)ネットが張られ、内、外が明示された。告知者がなかなかいい、めりはりを利かせていた。この演劇の中で、自制することで縮こまっている私たちに直接的に、それでいいのか?と揺さぶる力を持っていたと思う。私の中に、何か解放されるような感情が湧き上がった。また味のある箴言だったなと思った。
このような、反体制的な内容の演劇に取り組むこと自体に対して敬意を評したい。
この演劇の事件に対して、私は知識を持っていなかった。今日、日本の週刊誌にムンクについての記事が載っていた。ムンクがマラーの役、浴室で殺される場面、を自らの姿を描いていた。殺され、横たわるマラーと殺した側の女性の絵も描いている。有名な歴史上の一事件だったのですね。
Tさん(Oct 24, 9:19 PM)
フランス革命後の精神病院の中での出来事を精神病者・サドが今でいう演劇療法という名の治療として、たくさんの脚本を著していたとは今回のマラー/サド公演で知りました。
公演会場に入ってビックリしたのは、イタリアの舞台俳優と精神病者による公演でしたのに日本語で
「革命やろう!」
「障害があっても奴隷ではない!」
と大書された幕が掲げられていたことです。
お!お!ぉ!1970年代の舞台演劇が始まるのかな?と思いました。
そして、 舞台と客席の間には鉄柵が施され、当時はこういう形で演じられていたのかと、革命フランスであっても、サドやマラーが入院している当事者であっても、精神病者への偏見は凄いものがあったんだなと改めて思いました。
公演後は、観客とイタリアの精神病者当事者演者・舞台監督、精神保健当局スタッフとの交流がありましたが、和気あいあい、和みました。
しかし、現実の精神保健福祉は見る影もありません。「精神病者」は精神医療や精神福祉の餌食とされています。まさに、低賃金労働者として奴隷のように働かされています。
今日のこの場所に来られた中にはその現実に辟易して、来られた方、それこそ革命を行いたいと希望を託されてこられた方もいたと思います。
それでも何とか日伊の精神医療福祉の交流になれば良かったかなと思います。
Hさん(Oct 20, 2:13 PM)
先日は観劇させて頂きましてありがとうございました。
出演者の方の圧倒的な演技に感激しました。
劇の終わりの会場とのセッションも、役者さんの生の声がきけて良かったです。浜松でも、精神科病院入院者の地域移行が始まっています。質問されていた医師がおっしゃる通り、サークル的な位置づけで演劇をやることで、ソーシャルスキルトレーニング効果も得られると思います。仲間と繋がって行くことにが大きな支えになると思います。
演じていた役者の皆様、スタッフの皆様、遠くからおいで頂いて誠にありがとうございました。
お疲れ様でした。
Mさん(Oct 20, 1:22 PM)
ブログ「テトラポッドな日々」で浜松公演を取り上げさせていただきました。
クリエート浜松でアルテ・エ・サルーテ劇団「マラー/サド」を観た
≫ テトラポッドな日々 👉ブログを読む
Tさん(Oct 19, 7:47 PM)
熱は伝わると言いますが、まさにそのとうりの公園公演でした。熱い情熱、みなぎる意欲がほとばしり観衆に乗り移りいったいとなっていました。終わった後も拍手が鳴りやまずスタンディングオベーションでした。精神障碍者は奴隷じゃない自由が欲しいんだという魂の叫びがほとばしっていました。当事者だからこその訴える力がつたわってきました。あの鉄格子が最後まで残されていたことにも意味があったと思わされました。最初は異様な感じがしました。終わりにあの鉄格子が取り除かれることでハッピーエンドで終わるのかな、なぜ取り払われなかったのかなと多くの方が感じたと思われますが、時間がたってみるとなぜかそれでしっくり来ている自分がいてよかったんだと思得ているのも不思議です。精神科の病院が廃止されて40年たっても内面の自由を獲得することは容易ではなく日々戦いなのだろうと思いました。それは一般の人が日々生きていくうえでも同じだと感じました。鉄格子が象徴しているもの、当事者や医療者、福祉、行政、家族、政治一般社会そして潜在意識の中にある偏見や誤解を解いていく戦いは生涯続くものだという、そしてバザーリアの精神を維持し発展させていく戦いはこれからも引き継いでいき,なお一層高め連携,を強化していくことがなお一層大切なんだということを、これからも続くんだということを思い起こさせているように思いました。あの不快な鉄格子に今更ながら意味があったのではないかと思いました。
Kさん(Oct 18, 7:32 AM)
名古屋の基調講演、パフォーマンス、素晴らしかったです!
このような機会に私ども名古屋サーティーン(精神障害者バレーボール団体)がお手伝いさせて頂けましたこと大変光栄に思います。
浜松、東京公演も大盛況と聞き、仕事があり観に行けなかったことが実に残念です。ですが、皆さまと必ず再びお会いできると信じています。
バレーボールというスポーツでも是非とも交流したいです。
必ずボローニャに行きます!
感動を本当にありがとうございました!
Kさん(Oct 17, 7:38 PM)